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「日系移民の歴史を今なお物語る老舗ホテル:ホテル池田 」
はじめに
2001年から2002年にかけて約一年間、私はサンパウロ州立大学に留学した。当初ホームステイを希望していた私だが、なにせ大都会サンパウロでのこと、なかなか希望とする住居が見つけられなかった。そんな折、同じ大学の先輩で前年サン
パウロ大学に留学していた平野パウロさんに滞在先が決まるまでの仮宿として紹介さ れたのがホテル池田であった。
大都市サンパウロのセントロ近くに位置するリベルダージ地区は世界でも有数の東 洋人街である。今では中国人、韓国人も多く住むようになったこの地区だが、昔はたくさんの日系の店舗が立ち並ぶ一大日本人街であった。
ホテル池田はリベルダージの中心にある広場から数えて3本目の通り、Rua Conselheiro Furtado に位置する。今では全12室の小さなホテルではあるが、その歴史と伝統は驚くほど長く、一言では語り尽くせない。
ホテル池田の歴史〜創始者、池田正雄氏の人生の軌跡〜
1926年9月7日、ちょうどブラジル独立記念日の日にホテル池田創始者の池田正雄氏が乗った船がサントス港に着港した。愛知出身の正雄氏は13才から名古屋のホテルのレストランで修行をするなど、フランス料理を専門とするプロの料理人であった。正雄氏には日本で結婚し、妊娠中の妻ヨシノさんが同行した。ブラジルの地に初めて足を踏み入れた正雄氏は、この時27才の青年であった。
当初、5年くらいの出稼ぎのつもりでブラジルへやってきた正雄夫妻はサントス到着後、サンパウロ州のノーバ・エウロッパのコーヒー農園で働くことになる。しか
し、生粋の料理人である正雄氏にはコーヒー農園での労働は望むところではなく、す ぐに彼は農園を後にしてサンパウロ市へと向かう。そして、料理には自信のあった正雄氏はすぐにホテルの料理人として働き始める。言葉の面では数々の不自由もしながらも、彼がよりをかけて作る料理はその地域の日系人をはじめ多くの人に喜ばれた。
その後、彼はパラナ州のバンデイランチスの日系人が経営する野村農場の料理人を経て、同州カンバラで小さなレストランを経営することになる。これが彼にとって初めての自分の店になった。時代は1930年代後半のことだ。彼の人柄、そして料理の腕もあってこの店は繁盛し、同地に小さなホテル“ホテル池田”を開業、これが現、ホテル池田の前身となる。
カンバラで経営するホテル、レストランが順調をきわめる中、正雄氏は子どもたちにより良い教育を授けるべく一家でサンパウロ州バストスに移ることを決意する。バストスは日系人の多いことで有名な町で、彼はここで小さなバール(Bar)を始める。彼の作るうどんはたちまち日系人たちの間で話題となり、遠方からバスで彼の料理を食べにくる一団まで出てくるありさまであった。
その成功で得た金を資本に正雄氏は再びホテル池田を始める。結局彼はバストスで約20年間働くことになるのだが、好景気もつかの間、ホテルの経営も徐々に難しくなっていった。そんな中、1956年、彼のもとにサンパウロのセントロでレストランをしないかという話が舞い込む。
再びサンパウロで料理人としてやっていくことを決意した正雄氏は、現地の日系人池田さんからの投資もあり、リベルダージのRua
dos Estudantesにレストラン池田を開店。たちまち結婚式や宴会といったFestaの仕出しの依頼が殺到し、すぐに店は軌道に乗り始める。
様々な困難に直面しながらもそれを乗り越え、正雄氏はリベルダージでついに大成功をおさめる。何千もの弁当の注文、度重なる宴会の依頼などで、ホテル池田はその最盛期を迎える。また、正雄氏の人柄、面倒見の良さからか人々に慕われ、多くの人々にPapaiとして愛された。反面、こと料理に関しては厳しく、従業員の仕入れてきた魚の鮮度が気に入らず、怒って叩き返した話などは有名で、常に料理への探求を怠らなかったようである。
そして、昭和天皇初めての御訪伯の際には、レストラン池田を総動員して料理を担当した。日本から遠く離れた異国の地で、すばらしい日本料理を食べられたことに天皇陛下はいたく感動されたようだ。その後、2度目のブラジル御訪問の折にも「ぜひもう一度、池田のフェイジョアーダが食べたい。」と言われ、正雄氏がホテルまでその料理を届けた話は今でも語り草になっている。
他方で正雄氏は愛知県人会、2代目会長として県人会活性化にも尽力し、その努力の甲斐あって1983年8月、ついに念願の愛知県人会館が建設された。県人会館が完成し、喜びにひたる中、翌月9月に愛妻ヨシノさんが逝去。深い悲しみを乗り越えて、気丈に生きぬく姿勢をみせた彼であったが、翌年には後を追うようにしてこの世を去った。享年85才であった。サントスに到着してから数えて58年のことである。多くの人々がPapaiの死を惜しんだ。現在、彼の遺骨はアイルトン・セナの眠る同じモルンビー墓地に埋葬されている。
この58年の間、彼の功績、特に日系社会に果たした役割は計り知れないものがある。たとえば、彼のもとで多くの料理人も生まれ、巣立って行った。現在、サンパウロを代表する日本料理店、「八代」、「日の出」といった店の料理人たちもそうである。とまれ、この広大なブラジル全土に住む日系人の間で、ホテル池田と聞いて知らない者はいないとさえ言われる。
ホテル池田の現在
2002年、先代の正雄氏が亡くなってはや18年が経過する。今は正雄氏の長男Luis氏の嫁であるDona Junkoさんが1人でホテルを切り盛りし、義理の父親の家訓と威光を受け継ごうと奮闘されている。レストランは無くなり、規模は小さくなり以前ほどの活気はないが、人種、国籍を問わず多くの旅行者に安らぎの場を与えている点では昔とかわりはない。日系2世であるDona
Junkoさんは日本語、ポルトガル語双方にに堪能で、彼女が醸し出す雰囲気は今ではめったにお目にかかれない、古き良き時代の日本のおふくろ像を思い起こさせる。他方、仕事のためホテルに約10年間滞在
している加部氏は、1959年にブラジルに移住した人である。彼の幅広い学識、経験は内外の多くの旅行者にとって大きな手助けとなっている。このホテルには、その他にも作家、ミュージシャン、写真家、弁護士、サッカー留学生、語学留学生、、旅の行商人など、階層、職域を問わず様々な人々が出入りしている。かつて手塚治虫たちが集った「トキワ荘」のような様相をホテル池田は呈している。しかも、それはなんとも人間味の溢れる心の温かい宿となっている。したがって、見知らぬ者同士の、
ロビーでのお茶を飲みながらの旅の情報交換も池田の大きな魅力の1つである。ブラジル人従業員たちも実に愛嬌があって、宿泊者の面倒をよく見てくれる。それかあらぬか、あまりの居心地の良さに日本とブラジル間を何度も往復している人も少なくない。
正雄氏の生前のころから時代も移り変わり、社会を取り巻く環境も大きく変化した。現在のホテル池田の置かれている状況も決してやさしいものではない。数えて今年で64年の歴史と伝統を持つこのホテルは、正雄氏と同じくブラジルに渡り、今日に至るまで様々な苦労をしながらも生き抜いてきた日系人たちの人生のドラマを物語っているといっていい。この世界にたった1つしか存在しないそんなホテル池田がこれから先、末永く続いて行くことを願ってもやまない。
2002年9月7日、池田正雄氏渡伯76年目の日
ホテル池田107号室にて池田正雄氏の威光と功績を想い浮かべながら
青木 義道
この場をお借りしてブラジル留学1年間、ブラジルの母として常に温かい愛情で私 のことを気遣ってくれたDona Junkoさんに、またブラジルの父としていつも傍で支え
てくれた加部氏に心から感謝の念を送りたい。

ホテル池田旧館にて。中央Dona Junkoさん。2001年
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