「早慶戦とブラジル」

 2002年秋、超大型投手和田毅(現ダイエーホークス)を要する早稲田大学が伝統の早慶戦を征した。江川卓の持つ大学通算三振記録を更新し、かねてより注目されていた和田を中心としたこの年の早稲田は順調に六大学リーグを勝ち進み、歴史に残る52年ぶりの春秋連覇を成し遂げた。和田の他にも慶応の長田、法政の後藤、土居等、松坂世代と言われる好投手、好打者がこの年の東京六大学リーグを大いに盛り上げた。テレビで早慶戦を見ながら、私は2年前のブラジル留学直前に、友人で早稲田大学野球部トレーナーとして活躍する土橋恵秀のしてくれた話を思い出した。
 ちょうど留学目前で出発の準備に追われている頃、東京から友人の土橋恵秀が帰ってきた。早稲田の野球部でトレーナーとしての地位を確立し、和田を中心とした野球部員のメニュー調整等に忙しい中での突然の帰郷であった。久しぶりの話に花を咲かせた後、別れぎわに彼は私に一枚のTシャツをくれた。そこには早慶戦のロゴとともにブラジル国旗がプリントされていた。早慶戦とブラジルとのつながりに頭を捻らせる私に、彼は大変興味深い話をしてくれた。
 1908年に神戸より移民船「笠戸丸」に乗って最初の日本人移民がブラジルに渡った。その後も多くの移民がまだ見ぬカノンの地を求めて日本を発った。ブラジルに渡った日本人は多くの苦労を重ねながらも現在のブラジルにおける日系人の地位を築くにいたるのであるが、彼らの祖国日本に対する思いは尋常なものではなかった。例えば、戦時中に日本が負けたことを信じられなかった一部の者たちが、負けを見とめた現状認識派の人々を襲った、いわゆる勝ち組み負け組み事件もそのことを物語っている。
 ブラジルに渡った日本人は祖国の文化・習慣を忘れないためにも常に日本を意識した。くしくも当時の日本は早慶戦で沸き返っていた。その当時の早慶戦の人気といえば、相当なもので、今ではプロ野球が日本の野球の主流であるが、当時野球といえば早慶戦を指したようだ。もちろん早慶戦の歴史はプロ野球よりも深い。祖国日本で流行っている野球とはどんなものか。ぜひ我々も祖国のスポーツをしようではないか。日系人たちは見よう見真似で野球を始めた。バットは森から切り出したままの棒を使い、ボールは牛革を丸めて縫い上げて作った。ありあわせの道具ながら、一応形は整い、それなりに野球らしくなった。その後、徐々に日系社会で盛んになって行く野球を背景に、実際の目で祖国の真の野球を見るべく何人かの日系人が代表として海を渡った。
 彼らが訪れたのは早慶戦で沸き立つ名門早稲田大学であった。当時の監督に会った彼らは、日系社会での野球の現状を話し、真の野球について教えを乞うた。それを聞いた監督は、それこそが本来の野球であると日系社会の野球にいたく感動したそうだ。その結果、多くの日系人のいるブラジルと早稲田大学との交流が始まった。そして、1998年の日系移民90年祭の時に初めて早稲田・慶応野球部が海を渡り、日系人の悲願であった地球の反対側のブラジルで初の早慶戦が行われ、祖国を懐かしむ日系人によって大歓迎され、多くの人々を魅了した。2年前、土橋のくれたTシャツはその際に作られた記念Tシャツであった。
 話を聞き終えて、留学前の私はこれから一年間過ごすことになるブラジルに大きな期待と希望を膨らませた。そして遠隔の地で日本人としてのアイデンティティーを忘れず、現在の地位を築いた日系人にいたく感動したことを覚えている。私が留学を無事終え、帰国した2002年、それは最初の日本人がブラジルに渡って94年目の年であった。超大型ピッチャー和田の勇姿、そして早稲田の優勝は、ここ日本だけでなく、地球の裏側のブラジルの日系人をも大いに喜ばせたことであろう。

2003年2月18日
研究員 青木義道

この記事を書くにあたって貴重な話、アドバイスをくれた親友の土橋恵秀にこの場をお借りして感謝すると共に、彼の今後、一層の活躍と野球界への貢献を心から期待してやまない。

 

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