「世紀の対決:エリス・ヘジーナVSエルメート・パスコアル」

1.第13回モントルー・ジャズ・フェスティヴァル

 スイスの伝統的な音楽の祭典であるモントルー・ジャズ・フェスティヴァルは、世界でも名だたる音楽イヴェントの一つである。ヨーロッパにおけるブラジル音楽の人気、評価は共に高く、"ブラジリアン・ナイト"と称されるブラジル人アーティストの出演するライブショーはモントルーの呼び物の一つともなっている。1979年7月19日、この世界的大イヴェント(第13回モントルー・ジャズ・フェスティヴァル)の"ブラジリアン・ナイト"に、ブラジル音楽史上最高の歌手といわれるエリス・ヘジーナ、そしてマルチミュージシャンとして世界的に知られるエルメート・パスコアルが出演した。
 エリス・ヘジーナはこの時34歳、まさに歌手としても人間的にも円熟期にさしかかろうとしている時であった。一方のエルメート・パスコアルは当時43歳、ブラジル国内の活動だけにとどまらず、1970年代初期にはアメリカデビューも飾り、マイルス・デイヴィスとも共演するなど、モントルーに出演するには実力・名声ともに申し分のない存在であった。
 この日のライブの模様はレコード化されていて(1982年)、現在も聞くことが可能である。2001年に再版されたCDのライナーで、ネルソン・モッタはこのライブの模様を克明に記録している。この歴史的瞬間に実際に立ち会った彼のライナーを参考に、この日の様子を追想してみたい。

2.チケットソールドアウト:大人気の"ブラジリアン・ナイト"

 この"ブラジリアン・ナイト"は大人気で、チケットは何日も前に完売し、多くのブラジルファンが歴史的なショーを実際に体感するチャンスを逸していた。この日のショーの一番の目玉はやはり、稀有の才能を持ったブラジルの歌姫であるエリス・ヘジーナといってよかった。リハーサルの後、このイヴェントのディレクターであったクラウヂ・ノブスは彼の古い友人でワーナーに勤めるアンドレ・ミダニに、エリスを見たくても入れない観衆のために、夜の"ブラジリアン・ナイト"に先立つ午後3時に臨時の特別ショーを行うよう強く働きかけた。この時すでにエリスは極度に緊張し、不安な面持ちでこの日を過ごしていた。一説によると、この日のエリスはひどい高熱であったとも言われている。突然の申し出にもかかわらず、エリスは昼の特別ショーでは落ち着きを装い、経験とテクニックを持ってヒット曲を歌った。それはふだんの彼女の感情を思う存分表現するダイナミックなショーではなかったが、モントルーの観衆を魅了するには十分であった。そしてそれは、まさにすぐ後にくる世紀のビッグ・イヴェントのリハーサルのようなものであった。

3.エルメート・パスコアル:大盛況のオープニング、そしてエリス・ヘジーナ登場

 "ブラジリアン・ナイト"のオープニングはエルメート・パスコアルが最高のショーを披露した。ジャズに造詣の深いヨーロッパのファンにとってエルメートは待ちに待った存在で、多彩な彼のパフォーマンス、音の百科辞典ともいえる彼のクリエイティヴな演奏、テクニックに驚愕し、「南国のサンタクロース」さながらの遊び心いっぱいのステージに観衆は総立ちで酔いしれた。エルメートと彼のグループは会場を興奮のるつぼと化し、彼らを称える観衆一同総立ちの拍手喝采は15分間も続いた。30分のインターヴァルを挟み、ビリー・ホリデーのような頭に青いランの花をのせたエリス・ヘジーナがついにモントルーの舞台に立った。長いドレスに髪を後ろに結わえた彼女はすでにやつれているかのようだった。歌い始めた時、彼女は極度に緊張し、疲れきった顔は怯えているようにも見えた。10分ほど歌って、彼女は滝のような汗を流し、疲れ果てた彼女はやっとのことでその場に立ち、なんとか歌おうと必死で努力しているかにみえた。彼女の歌は悪くなかった。しかし、ただ小さくまとまってしまっているようにしか感じられなかった。
 舞台裏ではアンドレがパニックに陥っていた。彼はエリスが倒れてしまうのではないかと真剣に思った。アンドレはステージに上がり、彼女に水の入ったコップを渡した。そしてショーは続いた。ブラジル人ジャーナリストたちにとってはこの日のエリスは非常に物足りないものであった。彼女の歌うレパートリーはもう何度も聞き飽きたヒット曲ばかりで、アレンジも乏しく、エリスの舞台パフォーマンスもテクニックはあっても、感情表現の欠落したものであった。
 しかし、エリスを初めて見るモントルーの観衆にとっては彼女の歌声、そしてバックミュージシャンたちの非の打ち所のないテクニックと、それを取り巻くすばらしい打楽器の数々のどれを取っても大変満足のいくものであった。一方、ステージ上のエリスはこの時歌いながら苦しんでいた。彼女は、自分の大好きな歌を本当に今歌っているのか自分自身に問い掛けていた。それはあたかも嫌な事を無理やりやらされているかのようであった。幸いエリスのショーは盛大な拍手と共に幕を閉じた。しかし、オープニングでエルメート・パスコアルが受けた賞賛に比べればいささか小さなものでった。

4.エリスVSエルメート:世紀の対決

 疲れ果てたエリスはショーが終わるや否やすぐに舞台から立ち去った。クラウヂ・ノブスは、この時、舞台裏でエリスのショーの一部始終を見ていたエルメート・パスコアルを舞台に呼び寄せた。観衆の熱烈な歓迎を受けて、「音の神様」ともいえるエルメートは(ライナーで、ネルソン・モッタはエルメートを「音の魔術師」と書いている。)意気揚揚とピアノへと向かった。と同時に、クラウヂはエリス・ヘジーナをも舞台へと呼び戻した。エリスは苛立ちを隠しきれずにステージへと戻り、顔をこわばらせながらぎこちない様子でなんとか観衆に会釈をした。大きな拍手と一瞬の静寂が会場を覆った。そこにはエルメートのピアノとエリスの声しか存在しない。そしてエルメートはピアノを奏で出した。
 一曲目は名曲「コルコバード」。エリスがハーモニーを歌いだした時、ピアノの音色は驚くような不協和音に変わり、エリスにとってそれに合わせて歌うことは容易なことではなかった。エリスにとってというよりも、このトーンに合わせて歌うことは世界のどんな歌手でも不可能に近かったであろう。エルメートの奏でるピアノの音色の変化は究極的に洗練されたものであるとも言えた。それは、名曲として知られる「コルコバード」という曲を全く新鮮な、目新しい曲へと変えていた。舞台のエリスはその「音の神様」から発せられる予測のつかない音に対して次々と正確に応えていった。次第に彼女の歌はエルメートをも興奮させ、その曲を誰もが想像しなかった全くの未知の方向へと進ませた。ステージ上のエリスは、時にはバレリーナのように、時には戦士のように、時にはミュージシャンのように振舞った。ピアノに向かうエルメートは眼鏡の奥に潜む赤い目を大きく見開いていた。そしてエリスは、エルメートとのやりとりを通じて、徐々に彼女の歌の旋律、即興性、スキャット、拍子を発展させていった。会場は絶大な拍手と興奮で満ち溢れていた。
 エルメートが二曲目に「イパネマの娘」を弾き始めた時、エリスはその曲が彼女にとって最も忌み嫌うもので、もう二度と生涯歌うまいと堅く決めていたものであったにもかかわらず、彼女は活気に満ちみちた豊かな歌声を披露した。それは彼女がこの世で最後に歌う「イパネマの娘」であったかのように感じられた。途中でいきなり彼女は「イパネマの娘」の歌詞を英語で歌い始めた。その発音は完璧に近く、ステージ上のエリスは気取った娘を演じ、笑い、時には挑発的に振舞いもした。それは、あの鬼才として知られるエルメート・パスコアルをも巻き込み、舞台の二人は熱狂的な観衆と共に一気にファイナルへと突き進んだのである。
 総立ちの観衆の中、ラストの「アザ・ブランカ(白い翼)」では、ブラジル北東部のトラディショナルな歌をエルメートがフリージャズ調にアレンジし、エリスの大胆なカッティング、リズム、そしてエルメートとのからみ合い、音による問いと応え、会場全体を包み込む衝撃など、二人のアーティストによる究極の音と音との芸術がぶつかり合った瞬間であった。このエルメートのピアノとエリスの歌の衝突は、まさにステージの上での戦いにほかならなかった。

5.ショーのその後:アルバム"Elis em Montrenx"

 このショーを見ていたワーナー・アメリカの社長であったネスイ・エルテグンは驚愕して、茫然とその模様を眺めていた。ジャズ評論家も経験し、マイルス・デイヴィス等多くの世界的アーティストとキャリアを共にしてきた彼は、「このような感動的でテクニカルかつ大胆なデユエットはかつて見たことがない」と言って、衝撃と感動を隠さなかった。
 まだ興奮冷め止まぬ会場を後に、ネスイはアンドレ、エリスとの夕食にネルソンも招待した。ネスイが過大の賞賛の言葉を送ってもエリスはずっと不機嫌なままだった。そしてほとんど口も交わさず、アンドレに脅迫めいた調子で語りかけた。「まさかこのレコードは出さないでしょうね?」アンドレは何も答えなかったが、エリスは彼女の国際的キャリアを推し進めることのできるこのモントルーのライブ記録が世に出ることはないであろうことは知っていた。なぜなら、彼女自身がそれを望んでいなかったからだ。エルメートとのナンバーを除けば、残りはどれも価値が無いといってもよかった。それらのどれも彼女の満足のいくものではなかった。
 ブラジルに帰った後も、決してこの録音が世に出ることはなく、たとえエリスが死んだとしても、あり得ないことだろうとさえ言われた。そして、1982年1月19日、モントルーからわずか3年後に、エリスは36歳の若さでこの世を去ることになる。この時すでにアンドレの頭にはモントルーの録音のことなど皆目なかったが、いつしかワーナーの庭園に佇んでいたアンドレはふとエリスのことを思い出し、身の毛がよだつのを感じた。つまり、モントルーの午後の特別ショーの彼女のパフォーマンスがすばらしいものであったということを想起したのである。究極のところ、そのショーのおかげで彼女は疲れ果て、夜のメイン・イヴェントに悪影響を与えてしまったのではあるが、この時の彼女の歌は決して悪くはなかった。しかも、その模様は録音されていたにちがいない。彼は急いでテープをとりよせ、事務所で1人でそれを聴き、涙を流した。彼は、聴いては泣き泣いては聴いてその時の状況を克明に再現しようと努めた。まさにこの時、彼はエリスへの愛と敬意、そして正義のために、亡きエリスとの約束を破ってでもこのレコードを出すことを決意したのである。これはエリスの気持ちが最高潮に達し、同時にモントルーの悲劇的なあの夜の公演に対する失望を記録したものに他ならなかった。他方において、彼はエルメート・パスコアルとのセッションが実際にどれだけ見事なものであったかを改めて気付かされた。当のエリスでさえ、ショーの後に苛苛してはいたが、そのことは認めていたようだ。こうして、アンドレは午後の特別ショーから5曲を選び、エルメートとの3曲を組み合わせて"Elis em Montreux"としてLPを世に問うた。それは、1982年3月末、エリスが世を去って2ヵ月後のことであった。当のエリスは天国でそれをどのように捉えていることだろう・・・

6.私とアルバム"Elis em Montreux"

 "Elis em Montreux"は筆者が最も大好きなアルバムの一つだ。エリス・ヘジーナにとっても、このモントルーにかける意気込みは相当なものであったように思う。会場にはウエイン・ショーターなど世界の一流ミュージシャンが多数つめかけていたようだし、エリスにとってこのライブは、世界の大舞台へのさらなる飛躍となる大きな一歩だったのかもしれない。オリジナルメンバーも夫のセーザル・カマルゴ・マリアーノ(ピアノ、キーボード)をはじめ層々たるメンバーがエリスに同行し、すばらしい演奏を披露している。しかし、このアルバムの極めつけはやはりエルメートとの奇跡のセッションであろう。アルバム中たった3曲ではあるが、内容の濃さは尋常ではない。
 上にも書いたように、様々な資料を見てみてもこの日のエリスの体調は決して万全なものではなかったようだ。急遽行われることになった昼の特別ショーも大きな要因ではあったようだが、実際にこういった世界でもトップレベルのショーに対してエリスがかなりナーヴァスになっていたのも事実のようだ。今となってはこの日の彼女の精神状態が実際どうであったかは定かではないが、ふだんから気性の荒かったエリスのこと、自分の思うようにいかなかった夜のショーに関して相当苛立っていたことが想像できる。つまり、エルメートとのセッション直前のエリスの精神状態はここに特記するまでもないように思える。(エリスはその気性の荒さから詩人ヴィニシウス・ヂ・モラエスから早くに「とんがらし」のあだ名をつけられたのは有名な話である。)
 ここで注目に値するのが、ブラジルが誇る鬼才エルメート・パスコアルのその場でとった態度である。彼は苛立ちながらステージに上がったエリスを言葉ではなく音でなだめた。そして時には、しかりつけた印象も感じとられる。その光景は、まるでわがままを言ってだだをこねている幼子をあやしているかのようでもあった。彼らがこのセッションで演奏した「コルコバード」、「イパネマの娘」、「アザ・ブランカ(白い翼)」の3曲は、どれも言わずと知れた名曲中の名曲であるが、エルメートのピアノは原曲を感じさせないほどに変容し、時にはするどい不協和音で、エリスが合わせて歌うのもままならなかった。
 彼とのセッションで次第にエリスも苛立ちを忘れ、「音の神様」エルメートとの戦いに真っ向から挑んでいった。時には力強く、時には華麗に、また、エルメートをからかったりしながら白熱した音の戦いが繰り広げられた。であるから、この時のエリスは体調が悪かったのも一瞬で吹き飛んでしまったのである。
 この3曲全て筆舌し難い名曲であるが、最後の「アザ・ブランカ(白い翼)」を聴けば、いつもセンチメンタルな気分にさせられ、胸が熱くなるのは私だけであろうか。この曲は「ブラジル北東部の旱魃にうちひしがれた寂寥たる故里の奥地が、慈雨によって緑の世界によみがえることを切なく祈る、一人の被災者の望郷の歌」(ブラジル・ポルトガル語文法の世界p51/田所・青木共著/国際語学社)で、ブラジルでも最も親しまれているものの一つであり、「バイアゥンの神様」ことルイス・ゴンザーガの代表曲である。因みに、北東部はエルメートの故郷でもある。エルメートはこの曲をフリージャズ風にアレンジし、田舎の雰囲気を醸し出すこの曲を新たな境地に導いたように私は思う。この時のエルメートのアドリブにはエリスも脱帽のようで、レコードを聴いていても、曲の途中に幾度ともなく笑いを招き、そのエルメートの並外れた演奏テクニックに驚きを禁じ得ない。この曲のラストは、二人の意気もピッタリでショーのフィナーレを飾るにふさわしく、その場に居合わせていた多くの観衆たちが共感して体感する感動的な内容のものとなっている。
 最後に、この「アザ・ブランカ(白い翼)」のラストでエリスが即興で歌った歌詞の一部を紹介してこの文を終えたい。エリスは歌を通して素直にエルメートへの感謝の気持ちと、このセッションへの満足感を表白しているように私は思えてならない。いつもこの一節を聴くと、筆者は目頭が熱くなる。私は、少しでも多くのブラジル音楽ファンの方々にこのアルバムを聴いてもらえたらと思う。24年前の衝撃と感動に満ち溢れたこのアルバムは、歴史の偉大な語り部の役割を果たしながら、今後も聴く者に多くの感動と興奮と悦びを与えてくれるだろう。

 

Quando olhei a terra ardendo
Qual fogueira de São João
Então eu disse:
-Adeus, Hermeto, guarda consigo
Todo meu coração
聖ジョアン祭の焚き火さながら
灼熱の大地を見た時
そして、私は言った
さよなら、エルメート、私の愛をすべて
しっかり抱きしめておいておくれ

 

BIBLIOGRAFIA(参考文献)

Elis Regina/MONTREUX JAZZ FESTIVAL(CD)/ WEA/1982(2001)
田所・青木共著/ブラジル・ポルトガル語文法の世界:会話を通したブラジル文化散策の旅(p51)/国際語学社/2003
レジーナ・エシェヴェヒア著・国安真奈訳/台風エリス/東京書籍/2002

 

2003年9月22日
研究員 青木義道


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