3.ナナ・ヴァスコンセロス:音の創造主クリエーター

 1944年8月2日、北東部のペルナンブーコ州の州都へシーフェに生まれたナナ・ヴァスコンセロスは、ギタリストの父の下、13才のころからボンゴを叩き、地元のナイトクラブなどで活動を始めた。そして、同市の市立楽団のパーカッショニストを経て、北東部地方の大学や劇場を中心にジルベルト・ジルとも仕事をする機会も得た。
 1967年、彼が23才の時に北東部の代表的な作曲家であるカピーバに同行してリオ・デ・ジャネイロに渡り、ルイス・エサ、ウィルソン・ダス・ネーヴィス、マウリーシオ・メンドンサ、ミルトン・ナシメント、ネルソン・アンジェロ、ジョイスなどといった、その後の音楽シーンを牽引していくことになる数多くのミュージシャンたちと出会う。翌年サンパウロにおいて、ネルソン・アンジェロ(ギター)、フランクリン(フルート)、ジェラルド・アゼヴェード(ギター)と共にクアルテット・リヴリを結成する。この頃から、ガル・コスタ、ジェラルド・ヴァンドレ等との共演を通して次第に彼の名は知られるようになっていった。また、リオ・デ・ジャネイロでネルソン・アンジェロ(ギター)、ベースにマエストロのマウリーシオを迎えてトリオ・ド・バガッソを結成。グループは短命に終わるが、タンバトリオのルイス・エサに招かれ"聖なる家族(O Sagrada Família)"としてメキシコツアーも経験した。
 1970年にはアルナルド・ジャボール監督の映画"椰子樹の地域もしくは国(Pindorama)"のサウンド・トラックを担当し、同時期、アルゼンチン出身のサックス奏者であるガトー・バルビエリと出会い、録音のためにニューヨークへと渡る。アメリカで多くのジャズ・フェスティバル等に参加する機会を得たナナは、本場のジャズにも直接触れることになった。出演したフェスティヴァルで高い評価を得た結果、ジャン・リュック・ボンディー、ドン・チェリー、ロフ・カーン、オリヴァー・ネルソン、レオン・トーマス、マイルス・デイヴィス等、名だたるミュージシャンたちとのセッション・録音をも実現させた。
 その後、ナナはパリに渡り、当地のレーベル「サラヴァ」からアルバムを出す機会を与えてくれることになる、ブラジル音楽の良き理解者ピエール・バルーに出会う。パリでの数多くのコンサートやセッションを通してナナはヨーロッパでも知られる存在となり、ドイツ公演、そしてスイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルにも出演した。ヨーロッパではクアルテット・イアンサンを結成し、2年の活動の後、アフリカに渡って自分のルーツともいえるアフリカン・ミュージックの研究・調査にあたった。アフリカの旅を終えたナナは、待望のファーストアルバム"アフリカデウス"を発表。その後もフランスのテレビドラマのサウンドトラックを担当したり、ポルトガルでの録音も行った。
 そして1972年10月、彼は祖国ブラジルへの帰国を決意する。帰国後はソン・イマジナーリオに加入し、以後、多数の名演・名録音を残すことになる盟友エグベルト・ジスモンチのツアー、レコーディングに参加する。1973年には、セカンドアルバム"アマゾナス"をフィリップスから発表し、アフリカの民謡をブラジルのリズムに融合してみせた。1979年には、ドン・チェリー(トランペット)、コリン・ウォルコット(パーカッション)と伝説的なトリオとして現在も評価の高いコドナを結成する。また、1970年代はフランスで障害を持つ子どもたちへの音楽セミナーも行った。その後ナナはニューヨークに拠点を移す。そして、パット・メセニー・グループ、B.Bキング、ポール・サイモン、トーキング・ヘッズとの共演等、世界トップクラスの舞台で活躍した。
 1996年から1997年にかけては、ジョゼー・デ・アラウージョ監督の映画"追憶の奥地(O sertão das Memórias)"のサウンドトラックを担当、そしてジャパン・ソニーからはアルバム"断片(Fragmentos)"を発表する。1997年3月には、ジルベルト・ジルとサルヴァドールのカストロ・アルヴィス劇場で第4回世界打楽器大会を組織し、アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ、アジア各国から数多くのミュージシャンが参加した。このように、ナナは現在にいたるまで国内外で幅広い音楽活動を送っている。
 ナナ・ヴァスコンセロスは、ブラジル人であることに誇りを持ち、世界中でブラジル音楽を奏で、活躍するミュージシャンである。カンドンブレー、カポエイラを含むブラジルのありとあらゆるジャンルの音楽やダンス、祭りに精通し、「ブラジリアン・サウンド」(クリス・マッガワン他共著・武者小路他共訳/ブラジリアン・サウンド/シンコーミュージック/2000)によると、ナナと並ぶ世界的なパーカッショニストであるアイルト・モレイラは、ナナを「世界一のベリンバウ奏者」と絶賛している。たしかにナナは、カポエイラのいち楽器としてのベリンバウを様々な手法で取り入れ、その楽器としての可能性を限りなく広げた。そして、彼がライブにおいてベリンバウを使って創り出す色彩豊かな音のパフォーマンスは、大きな呼び物の1つと言っていい。そんな多彩な音を自在に繰り出すナナは、まさに「音の創造主クリエーター」といっても過言ではない。
 また、彼は1973年7月29日発行のJornal do Comércio紙の中で、前年にブラジルに戻った理由を次のように語っている。"ご存知のように、私は数多くのジャズミュージシャンたちと共演してきた。そして彼らは私のことを称賛してくれた。しかしながら、私は彼らの音楽と私の間にはとてつもなく大きな隔たりがあることに気付いた。私はジャズはすばらしいと思う。しかし、それはポピュラー・ミュージックという枠の中においてのことである。実際ジャズミュージシャンたちはすでにネタ切れになってしまっている。私は新しい音楽が、ここブラジルから発信されると信じている。なぜならジャズに代わるものがまだ掘り起こされずに存在しているだけのことなのだから。"
 このことからもわかるように、彼はジャズミュージシャンとして縛られるのではなく、自由に自分の音楽をすること、つまり、多様なブラジル音楽を追求し、世界中に発信していくことを選んだのである。また、彼は「ダウンビート紙」の最優秀パーカッショニストの栄冠に9度輝いている。現在も彼は世界を舞台に活動する傍ら、地元のカーニヴァルに参加したり、伝統を重んじながらもさらなるブラジル音楽の可能性を模索し続けている。

               

BIBLIOGRAFIA(参考文献)

Tárik de Souza, Elifas Andreato / Rostos e Gostos da Musica Popular Brasileira / L &PM Editoras / 1979
JOSÉ TELES / DO FREVO AO MANGUEBEAT / editora 34 / 2000
Enciclopédia da música brasileira / ART EDITORA, Itáu Cultural /1998
クリス・マッガワン他共著・武者小路他共訳/ブラジリアン・サウンド/シンコーミュージック/2000
中原仁編/ブラジリアン・ミュージック/音楽之友社/2000


研究員 青木義道
2003年11月9日

 

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