「台湾日記・Formosa・麗しき島−台北の社会・文化に接して−」
Taiwan, Formosa, Splendid Island: A Consideration of the Taipei Society and Culture

顧問 古畑 稔

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3.旅の第二日

 太平洋翡翠湾福華渡假飯店(Horard Beadh Resort Pacific Green Bay Hotel)の部屋に朝日が薄くカーテン越しに差し込むのをみて、私は起床した。同室の向井操氏の目覚めも遅くなかったが、私はそれより早く起きシャワーをした後、全身に水を心いくまで浴びた。生温い水で、膚の引き締まる水ではなかった。向井操氏と周辺を散策し朝食のため二人で別棟へ向かった。太平洋翡翠湾福華渡假飯店は、車道を隔てた2棟からなる典型的なリゾートホテルである。1棟は客室・240室、大きな車道を隔て立つ別棟はレストラン(西洋料理、中華料理、等)と娯楽施設、コンベンションルームなどの施設であり、翡翠湾の海辺に面して立っていた。朝食は7時から、台湾フルーツ溢れる食材を中心したメニューで、日本の朝食バイキングとは少なからず異なるが、それがまた美味しかった。私の朝食の席は、岩金孝司団長、森健社長、向井操氏の四人であった。岩金団長の愛娘・留美さんは、我々に挨拶をして通り過ぎていった。父の朝食を確認にきたのか、父と一緒に朝食をとりたかったのか?。彼女を含めて朝食をする人々はみな、満足しているように見えた。
 観光専用バスの出発は9時、定刻までの時間を余して台北市内観光に出発。途中、基隆市の中正公園の観音像を参観し、故宮博物院へ向かう。中正公園は、基隆市の高台にあり四方の眺望は素晴らしく、観音像は、白く高く22.5mの聖像である。観音像の前で記念写真を撮る人々、特に女性は観音像に聖母を投影し、自らの理想を「雅と聖の姿」(平和・雅の穏やかな人生、聖・無我・奉仕の精神)に求めているようであった。
 故宮博物院に向かう車中、ガイドの黄さんは、中国大陸から台湾へ移送された至宝が、民族の文化遺産としていま、台北故宮博物院に展示された来歴を説明した。国共内戦により1949年、国民党政府の台湾移動とともに、至宝もまた海を渡ったが、爾来16年の星霜を経て、1965年に開設された故宮博物院において、本格的な文化財保護が始まった。その間の激動期、このように立派に文化遺産を維持したことは、大変な努力であったと思う。現在の収蔵品の総数は70万点におよび、学術・研究の目的で全面的に調査を実施すると2年余の歳月を要するとのことであった。台湾中部地震の激しい揺れにも耐え、中国民族の文化遺産を守った故宮博物院を賞賛しながら、観賞時間は2時間ですと励ましてくれた。
 団地組合職員・永穂百々子さん(故宮博物院内では、永穂嬢、又は「彼女」と呼ばせて貰うことにする)は、勿論その中にいた。「永穂嬢ここが故宮だよ」。私は、先を急ごうとする彼女に声をかけ、彼女の仕草を写真に撮った。夢にみた故宮博物院にいま、彼女はいる。彼女の故宮博物院での表情を追って見ることにした。展示の回廊は仄暗く、文化遺産を見るに適した雰囲気であり、文化遺産はその明かりに調和し、歴代の皇帝の御世に誘う時の導き手のようであった。ガラス越しに見入る彼女は、無意識に前かがみとなり、左薬指を唇にあてて無言であった。彼女の目前に鎮座する至宝は、その皇帝の権勢と往時の民衆芸術の遺産であり、皇帝は愛妃とこれらの芸術品を朝な夕なに観賞し、絶えることのない自己の権勢の夢を追い続けたのか。彼女はいま、無想の中に、自らを過去の世界にタイムトラベルして、深い感慨に沈潜しているように見えてならなかった。私の目前より彼女が消えた。少しはなれた場所にその姿はあった。前と変わらなかった。観賞していた姿は静かであった。彼女が静かに舞う日本舞踊の姿がふっと思いだされた。永穂嬢は出発前に団地事務所で、終日一人でも、故宮博物院を観ていたいと言っていたが、その心情がなぜか理解できるように感じた。
 永穂嬢は、故宮博物院観賞の記念として、院内の書籍売店で故宮ガイダンスなどの書物を買い求めていた。故宮博物院前のガーデンで、参加者全員の団体記念写真を撮り、故宮博物院を後にした。

 

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