「台湾日記・Formosa・麗しき島−台北の社会・文化に接して−」
Taiwan, Formosa, Splendid Island: A Consideration of the Taipei Society and Culture

顧問 古畑 稔

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尼崎と近松門左衛門、近松と国姓爺・鄭成功(台湾の英雄)

 尼崎武庫川工業団地の所在する、わが町・尼崎市の生活文化部の中に、「ちかまつ・文化振興課」という課がある。何故に、そのような課があるのかと疑問に思った私は、文化振興課の発行する「近松のまち、あまがさき」(なぜ、尼崎と近松なのか?)を見て、尼崎と近松の深い関係を納得した。近松門左衛門は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作家。
 越前・福井の生まれ(1653年・承応2)〜尼崎市の広済寺に眠る(1724年・享保7)。代表作には、「曽根崎心中」、「心中天網島」、「国性爺合戦」などかある。「国性爺合戦」のの主人公は「国姓爺・鄭成功」(反清復明 & 反西洋)である。台湾の英雄として今尚、高く評価され「延平郡王祀」廟に眠る。また当時の清国が、国姓爺・鄭成功を祭祀する寺廟「延平郡王祀」の建立を勅許したことは、西洋列強の進出に苦しむ清王朝を彷彿とさせる。
 鄭成功(1624−1662)は、明国海賊の鄭芝龍を父とし日本人女性の田川マツを母として、1624年に長崎平戸に生まれる。明国名・鄭森、日本名・福松。1631年7歳の時に、母と弟の虎之助とともに明国に渡った。鄭森は、科挙試験に合格する程の学識豊かな知識人に成長し、父・鄭芝龍の期待の星であった。明朝の隆武帝に拝謁したのは、鄭森21歳の時であった。いま正に、明王朝が崩壊への階段を一歩二歩と早足で転落していく状態の時であった。隆武帝は『朕を忘れず、忠義を尽くせ。〜〜明王朝の国姓である「朱」を授けた。名前も「成功」と改められた。これが「国姓爺・鄭成功」の由来である』。

『括弧』内は、伊藤清著 『台湾』 2001年8月 中央公論新社 東京文中では、「国性爺合戦」(近松の著書)、「国姓爺・鄭成功」(明朝の敬称)を使い分けた。

 国姓爺・鄭成功は、1658年1月、明朝の永暦帝より「延平郡王」に任じられ、同時に「招討大将軍」の権限を授与さられた。鄭成功は、「反清復明」の旗手としてその忠義心を燃えたたせた。大志なかばにして、39歳の若さで病死した。「義理と人情と葛藤」の題材を得意とする近松にとっては、国姓爺・鄭成功(とその母・日本女性のマツ)は、格好の題材・主人公であり、江戸、京都、大阪の庶民の心に訴えるものがあったとものと思う。

『近松門左衛門の資料(国性爺合戦、等)』については、尼崎市生活文化部 ちかまつ・文化振興課より拝受しました。文化振興課には、いろいろとご教示をいただきました。深謝いたします。

 

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