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「カポエイラ(capoeira)の歴史」
広い意味でのブラジルの文化は、アフリカ的要素が基底になっている。音楽、料理法などはその典型である。ここで論じるカポエイラもまた、その原型は西アフリカ出自のバントゥー族がもたらしたものである。当初このカポエイラなる言葉は、一種の儀式的な舞踊を指すものであったらしい。なぜなら、それは今日なおバイーアの地において、信仰、ある種の儀礼、物心崇拝の賛歌とも結びついているからである。
武闘としてのカポエイラの出現を巡ってはもろもろの説が存在するが、その多くはcapoeiraという名称の起源に根底をおいている。が、カポエイラという言葉が初めて現れるのは、パルマーレスの乱を記した歴史書においてである。当時(17世紀)オランダ人がレシーフェを占拠し、そのどさくさにまぎれて多数の黒人奴隷が砂糖農園から遁走して、キロンボ(奴隷逃亡集落)を築いた。オランダの支配から脱した支配者側のポルトガル人は、黒人の作ったその共同体社会たるキロンボを破壊・一掃し、逃亡奴隷を捕らえるべく追跡者capitão-do-matoを内陸部に派遣した。
一説によれば、"カポエイラ"は"capão"(「茂み」)の戦士、すなわち茂みに隠れ逃亡奴隷の追跡者と立ち向かう者を意味した。とまれ、パルマーレスの乱の後、カポエイラはすでにその持つ特徴的な型と体裁をなしていた。闘技者は帽子をはすかいにかぶり、片方の耳には金の輪状のイヤリングをつけた。そして時に、雇われて暗殺者などの役を買って出た。
時が経て、アフリカ出自のこの闘技は、黒人とポルトガル人の混血児であるムラトに闘技者としての理想を見出した。つまり、痩身ながら筋肉隆々として黒人よりも背が低く、ポルトガル人よりも機敏なムラトは、自分流にカポエイラを取り込み、それをアクロバット的な格闘技に作り変えたのである。そして、19世紀の後葉になると、カポエイラ[術]は絶頂を迎えた。レシーフェ、サルヴァドール、リオの街には、カポエイラの一団がいて、そこらにたむろしていた。であるから、彼らはプロの犯罪人とみなされ、警察からも恐れられていたようだ。共和制になって、テオドロ・ダ・フォンセカ大統領は、増え続ける犯罪を案じ抑止する目的で、カポエイラ掃討作戦を繰り広げた。そして、カポエイラを実践する者はイーリャ・ダ・トリンダージに収容させ、強制労働を課したのである。1890年の刑法は、カポエイラをやる者は2〜6ヶ月間の拘留を定めている。そのためかカポエイラは一時期、消滅の危機に瀕した。ところが、その芸術性の高いカポエイラは見事に復活し、今やブラジルの文化と民族性を表徴する典型的なスポーツと目されている。ビリンバウに合わせて軽やかに乱舞するそうしたカポエイラのエネルギッシュな妙技を、アフリカ世界と深くかかわりのある黒いローマ、すなわちサルヴァドールの地において目の当たりにしながら、いたく感動したのは筆者だけではないだろう。
[2002年8月15日、脱稿]
主幹 田所清克
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